「ちょっと待ってくれ」 図書館にほど近い裏路地に入った所で二人を呼び止めた。 「どうかした?」 その問いかけに答える代わりに髪留めを外す。その様子をぽかんと見つめるイリア。そんな彼女を尻目に、頭を振りながら、癖のついた髪の毛を丁寧に下ろしていった。 「うわ、シオン女の子みたい!」 「うるせーよ。一部の人間には面が割れてるからな。変装だよ。ヘ・ン・ソ・ウ」 辛うじて顔が見える程度にフードをかぶると、「それじゃあ行こう」と言って歩き始める。この手の変装はやりすぎても疑われるし、かといって、何もしなければすぐにばれてしまう。うまい具合僧侶にでも間違えてくれればよいのだけれど。そんな事を考えながら図書館の門をくぐると、辺りに探りを入れながら、ゆっくりと先へと進んでいった。 総大理石のエントランスを抜けると数メートルの廊下が、その脇には貸し出しの担当者達が、俺たちを見ながらじっと座っている。しまった、と思った時には手遅れで、既にばっちりと目があってしまっていた。しかし何ら動じる気配はない。どうやら気づかれてはいないらしい。 出来る限り冷静を装いながら歩いていくと、その先にあるやたらと広い書庫の中へ、隠れるように入っていった。 「それじゃあ、各自でダークエルフについての本を調べよう。ええと、一纏めにした書架があった筈だが。確か……」 「あ、ここじゃない? シオン」 イリアが走っていった先を見ると、確かに見覚えのある本がズラッと並んでいた。どうやら彼女の言っている通り、そこであっているようだ。 「よし、そこを調べよう」 「ええ。そうですね」 そう言いながら書架の本に手をのばすカイ。しかし次の瞬間、彼は開いたページをじっと見つめたまま「あっ……」と声を漏らした。 「どうしたんだ?」 急いで彼の傍へと駆け寄っていく。彼の視線を追って、その先にある「それ」に気づいた時、ある一つの確信が頭をよぎっていた。きっと彼も、俺と同じ確信に至ったに違いなかった。 「ジェンド……」 ページに挟まっていた物、それは紫色の髪の毛だった。手に取ったカイは、それをギュッと握りしめて、胸に押し付けていた。閉じた瞳はわなわなと震え、微かに開いた唇からは嗚咽のような声が聞こえてくる。 それだけに集中力を欠いていたという事だろうか。彼の名前を呼ぼうとした瞬間、背後に気配を感じるや否や、「すみません」という声が飛び込んできた。 彼らの目的が何かくらい容易に想像できた。しかし、この時の俺を突き動かしていたのは「ここで捕まるわけにはいかない」という一念だけだったのだろうと思う。ゆっくりと目を閉じると、振り返ることなく「何だ」と低く押し殺した声で応えた。 「我々と一緒に来て頂きたいのです、王子」 「人違いだ。そんな奴ここにはいない」 「女王がお会いしたいと仰っています。是非とも我々と一緒にご同行下さい」 「……断ったら」 「強制するつもりはありません。飽くまで貴方様のご意志を尊重し、女王にはそうお伝えします」 「それじゃあ、ルハーツにこう伝えておけ。俺はいかない。もしも力を持って制すと言うなら、こちらとて容赦はしない。同じ手段に訴えさせて貰うぞ、と」 「いいえ、ルハーツ様ではありません。これはミト様のご命令です」 ミトという名前を聞いた瞬間、心臓が大きく波打っていた。
兵士の後について歩きながら、先程聞きだした話を、頭の中で何度も繰り返していた。 この国の、そしてミトの置かれている現状ーーそれは想像以上に酷いものであった。先の事件を受けて、王権は実質上ミトに移行。ルハーツは権力機構から外される事となる。しかし、混乱を避けるという名目上、それが公表される事は決してなかった。身内の失態を知らしめるわけにはいかなかったし、そうなったとしたら、それは王室の存在を揺るがす大事件になっていただろうから。だから、イールズ・オーヴァを招き入れたのが女王だなんて、口が裂けても言えなかったのだろう。結局はお定まりの「病気」という形で隠遁させて、後始末を全てミトに押し付けたのだ。 歴史は繰り返すと言うが、まさにその通りじゃないか。形を変えただけで、結局はルハーツが王位を継いだ時と同じ事が、今まさに起ころうとしていた。 ミトが権力を振り回すとは思えない。ただ、この国の体質と言おうか、そのようなものに危惧を抱かずにはいられなかった。 「こちらです。どうぞ」 豪奢な扉がゆっくりと開かれる。目の前には赤い絨毯が広がって、その先の王座に座っていたのは、紛れもない俺の妹だった。 俺に向かって微笑みかけてくるミト。そんな彼女の顔をぼうっと見つめながら、俺はどのような感情を持って接すればよいかすら解らないでいた。 「お帰りなさい……お兄様」 一度だけ地面に視線を落とした俺は、再び彼女を見上げると「ああ」とだけ応えた。それが彼女に語りかける唯一の言葉であり、俺たちの関係を象徴しているかのように思えたのだ。 彼女は少しだけ悲しそうな顔をすると、他の二人の顔を交互に見つめ、再び笑顔で話し始めた。 「お二人とも、良く来てくれましたね」 その言葉を合図に俺の前まで出てくるカイ。その場に膝をついて、恭しく頭を垂れた。 「女王、不躾にこのような話をする非礼をお許し下さい。私達がこの国を訪れた理由は……」 「カイ、頭を上げてください」 「イールズ・オーヴァが現れました。そして、ジェンドがさらわれてしまいました」 ミトの顔が青ざめていくのが手に取るように解った。彼女もあの事件に関わった一人なのだ。それが何を意味するかくらい察しはついたのだろう。 「失礼します」 不意に背後のドアが開いて、一人の兵士が、急いだ様子で中へと入ってきた。 「下がりなさい。今は大切なお客様とお話しているのです」 「申し訳ありません。ですが、ルーファス様から早急にお呼びしてくるようにと申しつかっておりまして……」 それを聞いたミトは、右手を額に押し当てると、さも不快そうにため息を漏らした。 顔をあげた彼女は先程よりも落ち着いて見える。しかし、その眉間には似つかわしくない皺が深く刻まれていた。 「……そうでしたね。解りました。ルーファス殿にはすぐにうかがうと伝えておいてください」 「解りました」 「すみません、どうしても外せない用事があるのです。お話は明日改めてという事にして頂けませんか? それから、今晩はここにお泊まり下さい。部屋は用意させますので」 「いや、もう宿を取ってあるんだ」 とっさに嘘を吐いていた。自分でも驚く程自然に。それは、この場所に対する拒絶反応だったのかもしれない。 「それならキャンセルさせます。今夜だけでもおもてなしさせて頂けませんか?」 「………………」 「そう……ですよね。私はお兄様の気持ちが解るなんて偽善めいた事を言うつもりはありません。でも、これだけは解って欲しい。あの時とは違うんです。もはやこの国にお兄様を拒む者などおりません」 「ミト……この国が俺を捨てたんじゃない。俺がこの国を捨てた。自らの意志で」 そして身体を翻すと、ゆっくりと歩き始めた。 少し遅れて、イリアとカイの足音が聞こえてくる。 「お兄様!」 応える代わりに足を止めていた。その悲痛な叫び声に、胸がキュッと締め付けられる。 「お願いですから……」 少し震えた妹の声。この国の長としてではなく、家族としての彼女の言葉。たった今気づいたんだ。俺は彼女に対する言葉を持っていないんじゃない。意識的であろうと無かろうと、俺自身が封印した。過去と一緒に。 お前は何をしているんだ、と心の中でどやしつける。俺は兄として、彼女にこのような事を言わせるべきではなかったのだ。何があろうと、絶対に。 「……解った」 噛みしめるように言うと、後ろから「ありがとう」という声が聞こえてきた。優しく頭を撫でるような、そんな声だった。 「ありがとう」 誰にも聞こえないような小さな声で、俺もそう囁いていた。
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to be continued...
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