異様な静けさに包まれていた。 吹き荒れる風もない。飛び交う木も、石も、何も存在しない。目の前に広がっていたのはただ暗闇だけ。 いつまでそうしているつもりだ、シオン。いつまで目を瞑っている? 目を開くのが怖いか? そこにある現実を見るのが怖いか? いっそう何もない方がいい? そうすれば何も失わずにすむのだから。馬鹿げてる。目を開け。そして全てをありのままに直視しろ。 暗闇の中に響き渡る己の声。それに応える代わりにゆっくりと目を開いた。ぼやけた視線の中に見たのは紺色と肌色の何か。これは俺の手か? それにミトの剣も。そうだ、俺たちはずっとこれを握りしめていた。結界を張って、何とか爆発の衝撃から逃れようとした。ミトは? あいつはどこにいる? 目の前の景色が輪郭を取り戻していく。少しずつ、ゆっくりと。その中に浮かんできたのは金色の髪の毛。伏しているのか、その顔を見る事はできない。剣の柄に張り付いた手をベリッとはがして、それを彼女の方へとのばしていく。 「ミ……ト……」 金色の髪の毛がふわっと揺らいだ。それからゆっくりと顔を上げ、呆然とした表情を俺に向けた。 「お兄……様?」 薄い唇がふるふると震えている。状況を整理できないのか、それとも未だに怯えているのか、それは俺には解らない。ただ、兄として俺にできる事は何か、と考えてみると、自ずと答えは解った気がした。 「大丈夫か?」 砂にまみれた髪の毛をそっと撫でてやった。一瞬にして彼女の顔がほころんでいく。それからぶんぶんと首を振って見せた。 次にあいつの事が頭を過ぎった。未だ俺に掴まったままのあいつの事を。その手の温もりを感じるから、だからきっと大丈夫なはずだ。 「イリア」 返事がない。少しだけ不安になる。 「イリア?」 もう一度呼んでみた。声が擦れている。もしかしたら震えていたかもしれない。 「ん……シオン……大丈夫?」 「ああ、お前は?」 「うん……何とか」 顔の筋肉が一気に弛んでいくのを感じていた。もしかしたら、という思いが過ぎらなかったわけではない。ただ、そのような思いに取り憑かれでもしたら、本当にそうなってしまう気がして。だからできるだけ考えないようにしていた。 それから、不意にカイの笑みが頭を過ぎった。俺の心をかき乱すあの無邪気な笑みが。二人はどうなっただろうか? それが頭から離れなくて、痛む身体を動かしながら、何とか立ち上がった。 突然吹きつけてきた風に砂が舞い上がる。反射的にマントで顔を覆って、その隙間から二人の姿を探し求めた。 かなり遠くまで飛ばされていたようだった。その姿を見つけた瞬間、何とも言えぬ脱力感がこの身を襲ったのだ。体中の筋肉がでろんと伸びていくような、そんな感覚。思考さえも酷く散漫になっていた。それに任せるがままにマントを離し、ぎこちなく足を踏み出していく。 二人は地面に横たわっていた。ジェンドの上にはカイが、まるで彼女を護るように覆い被さっていた。あの極限状態の中で、自分を護る事すら困難であったろうに。それなのに、カイは自分を犠牲にしてまでジェンドを護ろうとしていた。きっとそうなのだと思う。そして、その姿はあまりに衝撃的だったのだ。 「あ……」 背後から声が聞こえてきた。 「どうしたんだ?」と言いながら振り返ってみる。俺に背を向けたミトは、地面に尻をついたまま、何かを見つめているようだった。酷く震えた声が、風に流されて聞こえてきた。 ゆっくりと視線をあげてみる。その姿をとらえた瞬間、体中の毛が逆立つような、そんな嫌な感覚を禁じ得なかった。 「イールズ……オーヴァ……」
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「どうあっても私に楯突くと……そういうわけですか? クックックッ、面白い。虫けらの分際でッ!!」 背筋を冷たいものが走っていく。奴が術を展開させた、それを疑うべき理由はどこにもなかった。それが俺だけではない、イリア達にも向けられていたという事も。それだけは何とかして避けねばならなかったのだ。 「その虫けらにやられたのはどこのどいつだ?」 明らかにそれと解る挑発的な台詞。どうあってものってもらわねばならなかったのだ。 この時、恐怖などという感情は殆ど抱いていなかった。少なくとも、自分自身の命に対しては。イリア達を助けたい、今の俺にあったのはその思いだけだった。 「何だと?」 「あの時の決着はまだついていないぞ、イールズ・オーヴァ。さあ、俺が相手をしてやる。負けたままでいたくはないだろう?」 そろそろと足を動かし、イリア達との距離をひらいていく。奴も俺に関心を移したようだった。視界から離れていく俺を逃すまいと、少しずつ体を動かしていく。 「……解りやすい人だ。自分を犠牲にして彼らを助けようと、そういう事ですか? ふふっ、いいでしょう。いずれは皆殺しにするのだ。抗う機会くらい差し上げますよ。ねえ?」 「そんなんじゃねぇよ」 「まあいい。好きなようにかかってきなさい。さあ」 奴の口の端が微かに弛む。互いに消耗していた筈だ。それなのに、何故奴の顔は余裕に満ちている? それが不気味に思えて仕方がなかった。しかし、今の俺にこれ以上の選択肢は存在しなかった。奴が何を考えていようと、他に出来る事など無かったのだ。 一度だけ深呼吸して、それから両手を前に出した。今の俺に制御し得る最高位の術を思い浮かべる。奴を倒すには到底及ばないであろう術。普段ならばそうだ。しかし今の奴なら、消耗した奴ならば、万に一つでも倒せるかもしれない。その可能性に全てを託して、俺は術の詠唱を始めた。 「其は燃えさかる炎の息吹。我は汝のーー!?」 心臓がドクンと波打つ。咽の奥から熱いものが込み上げてきて、反射的に手で口を覆った瞬間、生臭い鉄の味が口中に広がった。それは久しく感じた事のない感覚だった。異世界で奴と対峙したあの日を境にして。 「うぅ……」 恐る恐る手を離してみる。思った通り、そこにはりついていたのはべっとりとした鮮血だった。 「己の器など考えもしなかったのでしょう? 馬鹿みたいに魔法を使って……身体が持つとでも思ったのですか? ふふっ、所詮は人間。如何に足掻こうとも愚かなる事に変わりはない。結局は種の制約を解き放つ事は出来なかったか」 「くっ……」 「しかしまだ勝機はある。ねえ、そうでしょう? 解らないのですか? では私が教えて差し上げましょう。『あの魔法』を使いなさい。異世界であなたが使ったあの魔法を」 「駄目だっ!! シオン!!」 「貴方は知っている筈だ。あの魔法が食らうのは魔力だけではない。いや、むしろ術者の命こそが力の根源」 「お兄様!!」 「あの時は私を殺すに至らなかった。だが今度は? もしかしたら倒せるかもしれない。貴方は自らの命と引き替えに大切な者達を護る事が出来るかもしれない。このままむざむざと彼女達が殺られるのを見るのか、それとも万に一つの可能性に賭けてみるのか。ふふっ、どうしますか?」 なるほど……奴にとってこれは遊びでしかなかったと、そういう事か。俺達に勝機がない事など、始めから解っていたのだ。チャンスを与えるつもりなど毛頭無かった。奴が考えていた事、それは如何にして俺達を殺すかという事。並大抵のやり方ではない。いたぶるだけいたぶって、極限状態に至った所でとどめを刺してやろうと、そういうつもりなのだ。 「シオン! 絶対に駄目だからね!! あんな術、絶対に駄目なんだから!!! もし使ったら絶対に許さないから!!」 「さあ! さあ! さあ! さあ!!」 チラッと振り返ってみる。そこにアドビス城はなく、あるのは巨大なクレーターだけだった。 「やるしか……ないか」 拳をギュッと握りしめる。短く呪文を唱えて、身体の回りに防御結界を張り巡らせた。異世界で用いたのと殆ど同じものだ。その違いは、物理的衝撃への防御を強化しているという事。それから目の前にもう一つだけ、巨大な防御結界を展開させた。術を唱える度、鈍い痛みが脈を打ちながら駆け抜けていく。しかし、ここで止めるわけにはいかなかった。 俺が二つの結界を作った事、それに奴が気づかぬ筈がなかった。しかし、奴にとって大きな脅威とはなり得なかった。何故なら、今この状態で防御結界を張るという事は、命乞いの他の何者でもないのだから。 「おやおやおや、アドビスの王子ともあろう者が怖じ気づいたのですか? それではまるで殻にこもったカタツムリだ。ねえ、そうでしょう? まさかそれで私を倒せるだなんて、そんな事を思っているわけではないでしょうね? さあ、早くかかってきなさい! さあ!」 奴の挑発に任せるがままに術を展開していく。辛うじて命をつなげるだけのものを。決して奴を倒せはしまい。だがそれでよかったのだ。 「……其は燃えさかる炎の息吹。我は汝の力を欲する者なり。願わくは灼熱の炎を我に与えん」 目の前の空間が歪曲して、それは緩やかな渦を生み出していく。その流れに乗って姿を現す紅の炎。徐々に大きさを増していくうねり。 あと少しで完成するという時だった。一際酷い痛みが胸に走って、それに耐えきれずに魔法を解きはなってしまう。目前の結界に阻まれて炸裂する炎。オレンジ色の光が弾けた瞬間、俺の身体は為す術もなくはね飛ばされていた。 「うわっ!?」 「シオンッ!!!!!」 様々な感覚があっという間に押し寄せていた。まずは鈍い痛み。それから身体がフッと浮かんで、四肢が千切れてしまいそうなほどの鋭い痛みが全身を駆け抜けていった。そしてしばらくして再び鈍い痛み。思い切りぶつかった肩が地面にめり込んでいく。胸に忍ばせていた神器が肌に食い込み、それは鈍い痛みとなって襲いかかってきた。 「ぐぁっ!!!」 そして再び目を開いた瞬間、遙か遠くにイールズ・オーヴァの姿を見つけた。それからすぐさま振り返ってみる。未だクレーターまではかなりの距離があった。さすがにあの魔法では甘かったか。そう思いながら、先程の神器の事が頭を過ぎった。 「一か八か……頼むぞ!!」 神器を地面に叩きつける。それはガラスが割れるように砕け散って、直後、目の前に巨大な結界を作り出していた。 「よしっ!」 ヘキサグラムの中心に向かって、全速力で走っていく。ありとあらゆる痛みが沸き起こっては消えていった。だが、そのような事はどうでもよかったのだ。これに失敗すれば、痛みを感じる事すらかなわなくなるのだから。 俺が為そうとしていた事。それは、ヘキサグラムに集結した力をこの身に取り込もうという事。水晶の知識を使えばもしくは、その力を制御する事が出来るかもしれない。いや、もはやそうするしかないのだ。 奴がそれに気づくのは時間の問題だった。今、この瞬間にも、奴はこちらに向かってやってきているに違いないのだ。先程の結界がいつまで持つかも解らない。何をしても、奴よりも先に行かなければならなかった。この時の俺を突き動かしていたもの、それはそのような思いに他ならなかったのだ。それであいつを助けられるならば、俺は何でもしよう。
結界に足を踏み入れた瞬間、強大な力の波が身体に絡まりついてきた。 俺はその中心に立って、ゆっくりと目を閉じる。俺の身体を中心に緩やかな磁場の渦が舞い上がっていく。これから先、少しでも制御を誤ったならば、それは千の刃となって俺を食らうであろう。 一つだけ深呼吸をして、それからゆっくりと両の手を広げていった。頭の中に浮かび上がってくる無数の印章。それが少しずつ巨大なヘキサグラムを描いてゆく。
『シオン、聞きなさい。この世界は貴方を求めている。イールズ・オーヴァはオッツ・キイムを滅ぼそうとしているわ。それを止められるのは貴方だけ』
イェールス神殿で聴いた水晶の言葉が頭を過ぎった。そうか、これこそが水晶の与えた知識、この世界を護ろうとする彼らの意志だったわけか。 「惜しかったですね、あと少しで全てを手に出来たものを」 「……お前がな」 奴の腹に両手を当て、そして全ての力を解放した。この空間を取り巻いていた全ての力が奴に向かって降り注いでいく。それはまるでナイフのように、青白い光を放ちながら、一瞬のうちに奴の身体を貫いていった。 「どう……して……?」 奴の仮面がはがれ落ちる。怯えた目をギョロギョロと動かしながら、それでも何とかして俺を睨み付けようとしていた。その身体がぐらりと揺れる。か細い指を食い込ませて、辛うじて俺にしがみついているようだった。 「……お前はやりすぎたんだ、イールズ・オーヴァ。この世界の……そこに住む人間達の運命を決めるのはお前じゃない。これは……これこそがこの世界のアポトーシスだ」 「認めない……私は認めないぞ…………貴方には解るはずだ……私が望んだ事……それは……それは…………」 「俺はお前とは違う。お前が追い求めていた理想など、俺には到底理解できない」 「私は……私はただ解き放たれたかった……私をとらえて放さない……蔑みの視線と……そしてこの茨の鎖から……逃れ……たかっ……た」 どさりと崩れ落ちるイールズ・オーヴァ。屍と化した奴を見つめながら、途方もない脱力感がこの身を襲った。 「あ……あぁ…………」 俺は一体何をした? そうしなければならなかったのは確かだ。でも……こいつは……この男はただ…… そのままひざまずいて、地面に両手をついた。胸の奥から不安が沸き起こってくる。どす黒い不安が止めどなく沸き起こってくる。どうしてそれを抑えられる? 俺に出来るはずがない。何故なら、イールズ・オーヴァの中に俺自身を見てしまったのだから。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」 込み上げてくる不安を吐き出せば、少しは楽になれるのではないかと思った。 |
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to be continued...
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