DAY9 Sion 目の前には広大なアドビスの城下が広がっていた。時刻は深夜と呼んでさしつかえないであろう頃。場所は寝室の近くにあるバルコニー。もちろん、ここには俺以外の誰もいやしない。唯一時を共にするものがあるとすれば、それは闇に包まれた城下の中にちらほら見える灯りくらいだろう。 太陽を飲み込んだ暗闇が支配するのは、眠りについた人間達の世界。彼らの生み出した炎という光は、如何ともしがたい支配に対するささやかな抵抗。それが如何に無力であるかは、彼らのさらした無防備な姿が証明する所であろう。何の不安や心配をも抱くことはない。日常生活の雑踏の外に目を凝らす事もない。この国で何が起こっているのか、たった一つの事象が自分達の生活を変えていたかも知れない事など知る由もない。彼らを安らかな眠りへと誘っていたのがそんな無知だとすれば、これほどまでに幸せな事もないだろう。既に虚像と化してしまったこの国でさえ、それを背後で支えるというのは並大抵の事ではないのだ。少なくとも、それを語る資格など、今の俺にありよう筈がないのだが。 「お兄様」 背中越しに聞こえてきたのは少し高めの透き通った声。耳障りのよいそれを慈しむようにゆっくりと目を閉じる。少しだけ間をおいて再び目を開けた時、自然と口元が緩んでいるのに気が付いた。 「こんな時間に出歩いたりして……何かあったらどうする」 叱りつけるつもりなど無かった。意識した穏やかな口調は、もしかしたら懇願するように聞こえていたかも知れない。隠し事をするのは上手くはないから、いつもどこかにボロを出してしまう。そうでない事を祈りつつ、心の準備を終えた俺は、ようやく彼女の方へと顔を向けた。 「護衛がついているから大丈夫です。それに、どこにいようとも危ない事には変わりないでしょう」 僅かに歪んだ口元には自嘲的な笑みが浮かんでいた。それを吹き飛ばすように二度ほど声もなく笑って、それから口元をキュッと固く結んだ。 俺はその様子をただじっと見つめていた。何か返さなければ、という思いは常に頭の中にあった。だが、俺は純粋に圧倒されていたのだ。彼女の雰囲気に。彼女の見せる表情の一つ一つに。そんな俺にしびれを切らしたのだろうか。彼女はもう一度だけ微笑んでから、目前に広がる城下に目を移していた。 「そちらに行っても宜しいですか?」 応えを待つことなく足音が近づいてくる。よく響き渡る小気味良い音だ。 「ああ」 少し遅れてそう答えた。その間も互いの視線が交わる事はない。ただ、俺の瞳はずっと彼女の姿を捉えていた。そして彼女が柵に身体を預けた瞬間、俺は再び城下の方へと視線を移した。その行為を続ける事に、些かの虚しさと恥ずかしさを感じずにはいられなかったのだ。 「……大丈夫か?」 言葉を選んだのか選ばなかったのか、自分でもよく解らなかった。きっと返って来るであろう『ある答え』を期待していたのだろう。そのような言葉で安心しようなどとは、我ながら随分浅はかだと思うけれど。 「ええ、まだ持ちこたえられる程度には。でも正直……今回は参りました」 「俺が言うような事じゃないけどな」 「構いません」 「法治国家においては『疑わしきは罰さず』が鉄則だ。だがアドビスは違う。そしてそれを裏付ける真理もある。この世の中には黒と白の二つしか存在しない。グレーゾーンなんて無いんだ。黒に限りなく近い白はいずれ黒になる」 「確かにそうかもしれませんね。いえ、その通りだと思います。しかしそのような事をして何になるというのですか? 僅かばかりの間この身を長らえさせる事にどんな意味が?ルーファスはきっかけでさえあれ、根本的な原因にはなり得ないのです。そこに彼である必然性はなく、あったのは彼であるかもしれないという蓋然性だけ」 仄暗い闇の中で息の詰まるような沈黙が訪れた。互いにその先を語る事だけは避けたかったのだと思う。意識的であれ無意識的であれ。 しばらく経ってから静寂を破ったのは俺だった。あの事を話さなければならない。このままミトと別れるわけにはいかない。そう思っていた。だがそうするには些かの時間が必要だったのだ。 「……あの時、嘘を吐いたんだ」 「何です?」 「俺がこの国を捨てたと、そう言った。だけど……あれは嘘なんだ」 「お兄様……」 「全てに耐えられなくなった俺はこの国から逃げ出した。尻尾を巻いてな。何もかもお前に押しつける事になると解っていたのに」 「あの状況では仕方なかった。そうでしょ?」 「そうかもしれないし違うかもしれない。だが俺が責任を放棄したのは事実だ」 「お兄様、これだけは信じて欲しいのです。私はそれでお兄様を恨んだ事など一度も、一度もありません。いえ、むしろ良かったとさえ思っているのです。もしもこうなっていなければ、私は未だ庇護の元で温々と暮らしていたでしょうから。ほんの僅かでもお兄様の苦しみの一部を引き受ける事が出来た、それが嬉しいのです。全てをお兄様に押しつけずに済んだ事が。一つだけ恨んだ事があったとすれば、それはお兄様がこの国に残って、そして異世界になど行かなかったら……私は大切な家族を亡くさずに済んだという事」 「お前……」 「だからお兄様が生きてらっしゃると分かった時は本当に嬉しかったんです。この目で再びお姿を見る事が出来た時、私が何を考えていたか解りますか? 私はお兄様と一緒にこの国を変えたいと思った。誰もが幸せに暮らせる国を作りたかった。いいえ、本当はそれも耳障りの良い言い訳に過ぎない。もちろん国の元首として国民の幸せを考えるのは当然の事です。しかし、一個人としての私が追い求めていたのはそのようなものではなかった。それは目的を達成したその先にあるものであり、それ自身が目的ではなかった。私は……お兄様がお兄様でいられる国を作りたかった。もう一度私の側に戻ってきて欲しかった。そして共にこの国をよりよくしていければと。でも……私じゃダメですね。結局は何も変えられなかった。崩れゆくアドビスを止める事が出来なかった」 「ミト、お前は本当によくやってるよ。本当だ。俺ならきっとここまでは持ちこたえられなかったと思う」 「でも結果として私には何も出来なかった。それが事実であり一番大切な事でしょう? 私の努力は結果が伴ってこそ評価されるべきもの。結局、私を計る物差しはそれ以外に何もない」 「……なあ、昔お前にせがまれて一度だけ砂遊びにつきあったよな。覚えてるか?」 「ええ、もちろん。凄く楽しかったから。でもどうして?」 「一緒に砂の山を作ったよな。その後、お前はてっぺんに旗をたてたいと言い出した」 「私は小さな木の枝を拾ってきて、それをてっぺんに刺した。そうしたらあっという間に崩れてしまって」 「お前は何とかして崩れるのを止めようと必死になっていたよな。両手で砂を押さえつけたり、もう一度固めようと叩いてみたり。でも無理だった」 「フフッ、あの後はずっと泣きじゃくってお兄様を困らせてしまいましたね」 「あの時だってそうだ。結局は止める事なんて出来なかった。そうだろ? ぎゅうって押さえつけても、結局は歪な形のまま元に戻る事なんてないんだ。でも、一度真っさらにしてしまえば、もう一度山を作り直す事だって出来る。城も、山も、作ろうと思えば何だって出来るんだ。一つの形にとらわれる必要なんてない」 「お兄様」 妹の小さな身体がそっと寄りかかってくる。 今だけはお前の背負った全てを受け止めてやるーーそう心に誓いながら、ずいぶんと逞しくなったその肩を優しく抱きしめてやった。
DAY10 Sion 翌日、カイと合流した俺達は魔導研究所へと向かっていった。 真っ青に腫れ上がった彼の顔には随分と驚かされたが、敢えてその理由を問いはしなかった。普段は冷静沈着なカイの事だ。そのような行為に至るまでにはそれなりの理由があったに違いない。つまり俺達には入り込めない領域があると、そういうわけだ。俺達の間に彼には入り込めない領域があるのと同じように。ただ、一つだけ理解に苦しむ事があった。いくら施療院に行くよう勧めても、頑なにそれを拒んだという事だ。何て事はない。白魔術を使えば痣など跡形もなく消えてしまう。しかもものの数秒でだ。妙な話ではあるが、彼は痣が消えてしまう事を拒んでいるようにさえ思えたのだ。 魔導研究所で俺達を迎えたのはヒルダという男だった。年の頃は30半ばくらいだろうか。背はすらりと高く、グレーの髪の毛は短く切りそろえられて、穏和な表情からはどことなく落ち着いた雰囲気が感じられる。一方で、色つきの眼鏡が表情を隠している感も否めない。 「ようこそ、お待ちしていましたよ」 社交辞令的な笑みを浮かべながら近づいてくるヒルダ。どうやら肩を大げさに動かす癖があるらしい。彼の身体が斜めに傾く度に、薄暗い部屋の奥にある何かがちらちらと目に入った。そして彼自身俺がそれに興味を持った事に気付いたらしかった。 「ああ、あれですか。あなた方が昨日倒した魔物ですよ。うちに分析依頼がきましてね。生物学は専門ではないのですが、ご存じの通りその手の研究に関してアドビスは遅れているのです。所謂オーソリティと言われる存在はいないのですよ。それで仕方なくうちが引き受けたわけです」 「分析?」 「そうです。一時的にしろ魔物が人間の指揮命令下にあった、我々はその事実を重く見ている。それ故にその原因を探り出そうと、こういうわけです」 「魔法を使ったんじゃないのか?」 「あり得ない話ではないですね。その可能性は極めて低いでしょうけれど」 「どうしてだ?」 「もしもそうであるなら、人間と魔物のパワーバランスは今とは全く異なったものになっている筈です。ここまで発達してきた我々人間が、何故未だに魔物の影に怯えねばならないのか。その答えは火を見るより明らかでしょう」 「それじゃあ他にどのような可能性が?」 「飽くまで仮説でしかありませんが、頭部に何らかの外科的な手技が施された可能性があります。見たところ幾つか切開した跡がありました」 「俺が使った魔法の跡じゃないのか?」 「いいえ。貴方の使った雷系の魔法の場合、裂けたような傷口になるのが通例です。確かにそれも多数見うけられましたが、頭部に集中して刃物で切ったと思われる滑らかな傷跡が散見されました」 「では脳に何らかの細工をしたと?」 「一つの可能性として。ただ、それを裏付ける公的な資料も実験結果も存在はしません。先ほど申し上げた通り、アドビスではその手の研究は遅れていますからね。もっとも、それを行う風土が存在しないというのが大きいとは思いますが。ただしそれには公的なレベルで、という但し書きがつきます。今件の場合は星室庁が関与していた公算が極めて大きい。その権力と財力を用いて秘密裏に研究が行われていたと考えるのが妥当でしょう。だとすれば、我々にとっても愉快ならざる事態に発展しかねないと、こういうわけです」 「たかだか権力を手に入れる為に神の領域にまで足を踏み入れるとは……人間というのはつくづく恐ろしい生き物だな」 「全くです。ああ、話が逸れてしまいましたね。失礼しました。それではそろそろ本題にはいるとしましょうか」 「ああ、頼むよ」 「お訊きになりたいのは魔術師失踪事件と魔物の活性化についてでしたね。まずは失踪事件についてですが、これに関しては改めて申し上げる事はありません。我々の持っている情報はあまりに少なすぎます。それをもって何らかの判断を下すというのは時期尚早でしょう。一方の魔物の活性化についてですが、これに関しては少しずつ全体像が明らかになってきています。オッツキイム全土で散見されるこの現象にはいくつかの共通点があります。こちらの地図をご覧になって下さい。よろしいですか? これによって被害を受けたのはマラス、シューエル、バルト、ルクエル、エイバ。どうです、お解りになりますか?」 「……全て古代神殿の近くにある町や村ばかりだ」 「その通りです。そして各地から集められた情報を分析してみると極めて興味深い事実が発覚しました」 「何だ?」 「この現象の発生には3段階のステップがあります。いえ、正確に言えばこの現象自体はその第二段階に位置するわけですが。まずは第一段階。神殿を取り囲むように障気が発生する。そして第二段階。障気の中から魔物が現れる。最後に第三段階。神殿の中心から天に向かって光の塔が現れる」 「光の塔……?」 「それが何かは解りません。しかし、オッツキイムで何かが起ころうとしている。それは確かなのです」 「ちょっと待ってくれ。ネツアク、イエソド、イェールス、カレルア、ユリアヌス……最後のレファスタはどうした?」 「手元にある情報ではまだ第一段階にあるようです。しかし、今後何日かの所で次の段階へと進むでしょう」 掌がじっとりと汗ばんでいた。 オッツ・キイムに点在する古代神殿は、アドビスを中心にヘキサグラムを為している。その頂点はネツアク、イエソド、イェールス、カレルア、ユリアヌス、レファスタの六つ。それぞれが強力な魔力を封じた遺構であり、その相互干渉によってオッツ・キイムが成り立っていると言っても良い。言わばそれらはこの大地を支える骨格のようなものなのだ。もしもそれらの封印を解いているのがイールズ・オーヴァであるとしたら、奴は一体何をたくらんでいる? 封印が解除されて全ての力が解き放たれたその後に何が起こる? ヘキサグラムの発動は一体何を意味するというのだ? 俺を支配していたのは捉えようのない不安だった。それから逃れるように、地図に落とした視線をゆっくりと上げた。視界に入ったカイは、険しい顔をしながら俺をじっと見つめている。そしてその瞳を見つめた瞬間、彼が何を考えているかすぐに理解できた。 「行きましょう」 そこにジェンドがいる。少なくとも彼はそう確信しているようだった。アドビスに残るのか、それともレファスタに向かうか。葛藤がなかったと言えば嘘になる。しかし、俺の唇はそう応える事に何の戸惑いをも持ってはいなかった。 「ああ」 そしてゆっくりとイリアの方に視線を向けた。いつも通りの笑みを浮かべながらこくりと頷く彼女。その笑顔ほど頼もしいものは他にはなかったと思う。 「レファスタに行かれるのですか?」 「ああ、そうだ」 「女王からこれを預かっています。どうぞ」 ヒルダが差し出してきたのは一通の手紙。そしてアドビスの紋章とミトの署名の入った紙と、この国に古くから伝わる神器だった。 『お役にたてますように』 手紙に書かれていたのはただそれだけだった。しかし、彼女の想いを伝えるのにそれ以上相応しい言葉は無かったと思う。 「行こうか」 二人の顔を交互に見つめてから、もう一度だけ頷きあった。そして俺達は一路レファスタへ。そこで全ての決着をつけようと心に誓いながら。 |
to be continued...
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