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DAY4 Iria

 あの日、あの瞬間に目を覚ましてしまった事を後悔している。あの場所にいた事、この悲しい物語に関わってしまった事を。いや、もしかしたら、あの二人と出会ってしまった事かもしれなかった。
 暗闇の中でオレンジ色の炎が揺らめいている。パチパチと音を立てながら、紅の火の粉を舞い上がらせて。
 余程敏感になっていたのだろうか。ふと目を覚ました私は、空をじっと見上げてみる。その先にある暗闇に目を凝らしていた。星一つ出てはいない、絵の具をぶちまけたような重苦しい闇。それは、全てを飲み込んでしまう大きな渦のように見えた。
「起きたのか? まだ交代の時間まではかなりある。朝も早いし、もう少し寝ていた方がいいんじゃないか?」
 炎を隔てて、向こう側から柔らかな声が聞こえてきた。少し抑え気味で、いつもよりも低い、ゆっくりとした調子の声。頬を撫でる風のようなカイ兄さんの声だ。
「眠れないんだ」
 ジェンドさんがぶっきらぼうに答える。土を踏みしめる音と小枝が折れる音が重なって、兄さんの言葉が後に続いた。
「寝ないと身体に毒だ」
「私が傍にいたら邪魔か?」
 足音が消えて、燃えさかる木の音だけが響き渡っている。私は胸の辺りに両手を置いて、目を閉じたまま、静寂の中に二人の声を求めた。
 私が起きている事を知られたくはなかったし、それで二人の邪魔をしたくはなかった。
「解ってるだろ、そんなんじゃないって。だから」
「少しだけでいい……傍にいたいんだ」
 少し擦れた声が兄さんの言葉を遮った。それは強い意志を内に秘めていたようにも聞こえたし、同時に、酷く弱々しいものにすら聞こえた。
 私は二人の事など何も知らない。その筈なのに、ほんの僅かな言葉の中に、あまりに多くの想いを感じずにはいられなかった。そして気がついた時には、閉じた目を開く事に何の躊躇いをも感じてはいなかった。
 揺らめく炎の向こう側に二人はいた。幸せな恋人同士のように身体を寄せ合い、微かにゆるんだ口の端は緩やかなカーブを描いていた。

 そしてそれは、私が最後に見た二人の幸せそうな姿だった。

apotosis#3 disorder

 一睡もする事が出来ないまま、いつの間にか夜は明けてしまっていた。
 東の空がうっすら紅に染まった頃を見計らって、よく眠れたようなふりをしながら身体を起こした。シオンは「何か様子がおかしい」と思っていたみたいだけど、お決まりの朝の挨拶以外、特に何を言うわけでもなかった。そんな彼の態度にほっとしながら、彼を騙そうとした自分に少しだけ嫌悪感をおぼえてしまう。
 私達はおざなりな朝食をとり、寝床を片づけて、そして陽が昇る頃にはアドビスへと向かって歩きはじめた。

「そういえば、王子とイリアちゃんは何でリルハルトへ?」
 暫く無言のまま歩いていた中、不意にカイ兄さんが口を開いた。そんなぎこちない切り出し方は、私達の間で当たり前になっていたものだ。しかし、それを聞く度に、私はほっとするのだった。
 誰も口をきくような気分ではなかったのだ。互いの事もそうだし、どのような事を話せばよいかも解らなかった。それ以上に、話を切り出すというのは、とても体力を消耗する事のように思えて。だから、誰かが話し出してくれるというのは、そのきっかけを作ってくれるというのは、ある種救いのようなものだったのだ。痛々しい沈黙は、何にも増して苦痛であったのだから。
「偶然旅の途中で立ち寄っただけだ。旅って言っても、目的地なんて無いんだけどな」
「うん、思い返してみると、シオンの言葉が始まりだったよね」
「まあな。ザードの家で二人暮らしっていうのも悪くはねぇけど、旅が長いと、一所に留まるのは落ち着かない感じがしてな」
「そうじゃないよ。異世界で言ってくれたでしょ? イリアに戻って……そしてまた旅をしようって」
 あの時のシオンの声が聞こえてきたような気がしたんだ。私が女だって事を打ち明けた時、シオンは何もかも知っていて、何も知らなかったのは自分だけで。びっくりして、恥ずかしくて、情けなくて、涙が止まらなかった。シオンはいつもみたく意地悪だったけど、それがどれだけ優しかったか、痛い程解った。あの時の笑顔に、女としての自分を受け入れてくれた彼に、私は救われたんだ。その時の気持ちは、今も色あせることなく、私の胸の奥底に眠り続けている。それを思い出す度に胸が締め付けられて、涙がこみ上げてくる程嬉しくなって。でも、彼の前では泣きたくないから、キュッと唇を結んで、込み上げてくる涙を必死に堪えていた。
「そ……そんな事言ったか?」
「な〜に赤くなってんだよ、シ・オ・ン」
「だ、誰がっ!!」
「またどもった」
「ど……どもってなんて」
「あ、また」
「ふふっ、その辺にしておいてあげたら? イリアちゃん。だいぶん困ってるみたいだよ」
「カイ……お前まで……」
「あ、ははっ、つい……こんな王子を見るのは初めてでしたから」
「あのなぁ、俺はもう王子じゃないんだ。だから普通にシオンでいい。それに敬語も使わなくていい」
 兄さんがシオンに話しかけるたび、ジェンドさんはほんの少しだけ不機嫌になった。はきり解る程じゃないけど、プイッと向こうを向いて、唇の端を微かに歪めていた。きっと、シオンに対する態度が気に入らなかったのだと思う。好きな人が年下に敬語を使うなんて、決して気持ちの良い事ではないだろうから。兄さんにとっては当たり前の事で、それが身体に染みついていただけなのだろうけど。
「解りましたよ、王子。あ……」
「ま、いいけどな」
「でも、異世界ではてっきり」
 そこまで言って、兄さんは「まずい」と言う風に声を漏らした。その先に続く言葉は明らかだったし、だとしたら、取り繕うのは至難の業だろう。案の定、困った様子で視線を泳がせるカイ兄さん。だけど、シオンは顔色一つ変えていない。
「構わないさ。あの時はさすがの俺も『もうダメだ』って思ったしな。でも、アイツが助けてくれたんだ」
「あいつ?」
「ザードだよ。イールズ・オーヴァを倒す為に禁術をつかった俺はボロボロの状態だった。歩く力すら残って無くて、イリアとレムだけオッツ・キイムに帰して、自分だけそこに残ることにしたんだ。地面に横たわったまま、ずっと空を見つめていた。目映いほど真っ白な空だった。そこから白い鳥が舞い降りてきたんだ。雪のような白い羽がゆらゆらと落ちてくるのが見えた。そして目の前にはザードがいた。後は……気がついたらどこかもわからない砂浜に打ち上げられていた」
「不思議な話ですね」
「ああ。でも一つだけ解ったんだ。諦めなければ何とかなるもんだってな」
 そう言いながら、おもむろにシオンが足を止める。彼の方に視線を向けると、丁度振り返ろうとしている所だった。
「どうしたの?」
 一瞬だけ互いの視線が交差する。しかしすぐさま後ろを向いてしまって、今は彼の髪の毛しか見えない。その答えを求めるように振り返ってみる。その光景を目にした瞬間、私は酷い胸のざわつきを覚えたのだ。はっきり何と言う事は出来ない。だけれど、私の本能はひたすらに警告していた。これはただごとではない、と。
「ジェン……ド?」
 兄さんの言葉が風に掻き消されていく。ジェンドさんはそれに応える事もせず、ただ立ち竦んでいるだけだった。項垂れているせいで顔を見る事は出来ない。ただ、その様子が尋常ではないという事、それは私でも理解できた。
 すぐ傍からザッと砂を蹴る音が聞こえてくる。反射的に視線を向けると、そこには強ばった顔をしたシオンが、掌を地面に向けて、両手を前に突き出していた。素早く動く唇は、何か術を詠唱していたのだろう。不意に、地面から風が舞い上がっていく。それは渦を巻きながら、あっという間にシオンを取り囲んでいった。彼のマントや髪の毛も、その流れに乗って宙に浮き上がっていく。そして地面からは赤や青の光が、仄かに輝きながら、空気のうねりの中へと溶け込んでいった。
「どうするの!?」
「外からの干渉を絶つ!」
 ジェンドさんを取り囲む景色が歪んでいく。まるで彼女を中心にして空間を捻ったかのように。歪曲した空間からはいくつもの光の壁が現れていた。蒼白に輝くそれは、多面体を形作るように傾いていき、あっという間に彼女をその内へと取り込んでいった。
 しかしそれも束の間。面の継ぎ目から目映い光が漏れ出て、それは一瞬のうちに全体へと広がっていったのだ。
 硝子が割れるような音とともに砕け散る光の壁。その瞬間、隣でドンッと大きな音が鳴り響いた。
「シオン!?」
 隣に向けた視線の先にシオンはいない。一瞬のうちに血の気が引いていく。間髪を入れずに振り返る私。そこに見つけたのは仰向けに横たわるシオンの姿。顔中を歪めながら、胸の辺りをギュッと握りしめている。
「シオン!!」
 そう叫ぶが早いか、すぐさま彼のもとへと走っていく私。自分でも何が何だか解らなかった。ただ焦ったまま、滑り込むようにして跪いて、彼の身体を荒々しく抱き起こしていた。
「ッ……俺は大丈夫だ。それよりアイツを!!」
 苦悶に満ちた表情で兄さん達を見つめるシオン。彼を抱きしめたまま、その視線の先を急いで追ってみる。そこにはジェンドさんが、紅の瞳を妖しく輝かせ、私達を睨み付けていた。その顔に表情の類は微塵も浮かんでいない。ただひたすら敵意を剥き出しにしているだけ。その姿に、私はただただ戦慄するしか出来ないでいた。
「ジェンド……嘘だろ? 俺の顔を見ろよ! カイだ! なあ、ジェンド!!」
 その呼びかけに応えるように、彼女はゆっくりと剣を抜いていった。切っ先を地面につけて、それを静かに振り上げていく。斜陽を受けた刃は妖しく煌めき、紅の瞳と共に、その身に艶めかしい光を宿していた。
「ジェンド、お願いだ。俺はお前を斬りたくない。頼むから……そうさせないでくれ」
 感情のこもっていない、とても低い声だった。兄さんが淡々と喋っていくのを聞きながら、背中にぞくっと冷たいものが走り抜けていく。魂をも震わせてしまうような、酷く嫌な感覚だった。しかし、ジェンドさんに耳を貸す気はないらしい。刃を兄さんに向けたまま、ザッと音を立てて、右足を一歩前に踏み出していく。
「……二人とも、手出しは無用だ」
 止めに入る隙さえ与えずに走り出す二人。あっという間に互いの距離が狭まって、ぶつかり合う刃の音に、体中に震えが走っていった。
「こんなのって……こんなのってないよ! 何で二人が戦わなきゃいけないの!? そんなのダメだよ! ねえ、シオン! 何とかならないの!? ねえ!!」
「……………………」
「シオンッ!!」
「シッ、解ってる……解ってるから! さっきすぐ近くで強い力を感じたんだ。今は気配を消しているようだが、これだけの術だ、維持する為に再び仕掛けて来るに違いない。その時が唯一のチャンスだ」
「本当に!?」
「ああ、だから静かにしてろ!!」
「う……うん」
 その直後に激しい金属音が鳴り響いた。酷く歪んだ甲高い音だ。
 音のした方へと顔を向ける。ビュッと音を立てながら振り下ろされる彼女の刃。それは兄さんの頬をかすめて、赤黒い血が頬を伝って流れ落ちた。しかし兄さんに怯む様子はない。野太い声を響かせながら、手にした刃をすぐさま振り下ろす。彼女は再び剣を振り上げ、兄さんの一撃を弾き飛ばしてしまう。その繰り返しだ。二人の剣の腕は互角に見えたけれど、兄さんに僅かな隙が見えた瞬間、彼女の剣は決まってブレた。
「どりゃぁぁぁぁ!!!」
 大きく振りかぶった兄さんの剣が勢いよく振り下ろされる。バランスを崩した彼女は剣を横に構え、一撃を食い止めるのがやっとのようだった。素人目にも、兄さんが優位にたっていたのは明らかだった。
「ジェンド!!」
 兄さんの声が響き渡った瞬間だった。ジェンドさんの身体はビクッと震え、ほんの僅かな間だけ、彼女は動きを止めていた。しかし兄さんも動こうとはしない。驚いたように目を見開いて、わなわなと身体を震わせながら、逃げるように後ずさりをしたのだ。
 その隙を彼女が見逃すわけがなかった。勢いに任せて振り上げた剣で兄さんの剣を弾き飛ばして、隙だらけの胸に思い切り蹴りを入れる。肺が飛び出してしまうのではないかと思う程咳き込む兄さん。痛みに堪えかねたか、その場に倒れ込んでしまう。絶好の好機を見いだした彼女は、剣を片手に持ち替えると、それを大きく振りかぶった。
「やめてっ!!」
「ジェンド!!」
 二人の声が響き渡る。それを合図に振り下ろされる彼女の剣。紅の陽に染まった刃が、彼女の首筋をめがけて生々しい弧を描いていく。そして肌に食らいつこうとした瞬間、鍔の辺りから目映い光が弾け、剣諸共砕け散ってしまった。
 彼女の身体がぐらりと揺れる。まるで糸を切られた人形のように、為す術もなく崩れ落ちていく。
「そこだっ!」
 どさりと倒れ込んだ音に重なるシオンの声。掌の中に透明な光の玉が浮かび上がって、それは血を垂らしたかのように赤黒く染まっていく。そして両手を振り上げた瞬間、それは轟音と共に空を駆け抜けていった。
 彼女の頭上高くまでいった所で爆散する光の玉。紅に染まった空に黒い煙がもくもくと沸き起こっていく。その先に少しずつ人影が浮かび上がって、その正体を悟った瞬間、私は戦慄してしまったのだ。
 どくん。
 心臓が大きく波打つ。
 どくん。
 頭の中に異世界での記憶が沸き起こってくる。毛穴という毛穴が広がっていって、体中から力が抜けていく。
 どくん。
 そう、私はこの男を知っている。異世界で出会ったこの男を。
 口の端にいやらしい笑みを浮かべたヤツは、ゆっくりと地面に降りると、ジェンドさんの身体を荒々しく抱きかかえていた。
「だからあなた方は愚かだというのですよ。おとなしく引き渡していれば良いものを」
「くっ……汚い手で……ジェンドに触るなぁぁぁ!!!!!!!」
 地面にうずくまったまま、震える手を必死に伸ばす兄さん。そんな兄さんを一瞥したヤツは、嘲るように笑って、その手を思い切り踏みつける。
「ぐあっ!!!!」
「兄さん!!!!」
「だから無駄な抵抗はよせと言っているのですよ。おとなしくしていれば、今回だけは見逃して差し上げましょう。そうだ、そこの王子様を見習ったらどうです? 彼はあなた方とは違う。論理的にものが考えられる男だ。手出しをすればどうなるか、ちゃんと解っている」
「く……」
「そうですよ、それでいい。あなたの魔法はこのダークエルフを殺す事はあっても、決して私を傷つける事など出来ない。ですが……もしここで彼女を殺せば、私の計画も頓挫する。この女と引き替えに、あなた方はオッツ・キイムを救う事が出来るわけだ」
「「「…………!!!!」」」
「しかし、あなた方に決断を下す勇気などない。そうでしょう? 愚かな事です。愛や優しさは判断を鈍らせ、弱さを生むだけだというのに」

「所詮あなた方に私を止める事など出来ないのですよ」

 イールズ・オーヴァがマントを翻した瞬間、それが風に靡く音と共に、二人の姿は跡形もなく消え去っていた。
 地面に転がった刃のかけらを見つめながら、私達はただ為す術もなく、呆然と立ちつくしているしか出来なかった。

to be continued...


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